パスタ三昧
料理が好きなのである。
と言っても、いんげんとなんとかのごま和え、とか、なんとかとなんとかのおひたし、とか、なんとかとなんとかのなんとか、というような、箸休めに出したら小粋なやつじゃない? そういうのがさっと作れるとカッコよくない? みたいなのはまったく作れない。
私が作るのはもっぱら、カレーや麻婆豆腐、親子丼や牛丼などの丼もの、鶏のから揚げにハンバーグといったような、大皿で「どん!」と出すような料理ばかりである。
その中で、近頃特にハマっているのが、パスタである。
いや、パスタ自体にはずいぶん前からハマっているのだが、作る頻度が最近はとみに上がってきているのである。
パスタはいい。パスタは好きだ。なにがいいって、なにをどう作ってもそれほど変な味にならないのがいい。もちろん、プロの料理人が作るパスタには到底敵わない出来ではあるが、そんなにひどい味にもならない、そういう適当さがいいのだ。
ということで、唐突ではあるが、最近作ったパスタをいくつか紹介させていただく。
まず、フェットチーネのアラビアータである。ソースは缶詰なのでちょっと手抜きである。厚めに切ったベーコンがうまい。
ジェノベーゼ。エビとイカが入っている。本当は松の実も入れたかったのだが、なかった。バジルはベランダで栽培してるもの。でかい。
ナポリタン。ナポリタンにはソーセージとピーマンである。今回はナスも入れてみた。
ちなみにナポリタンは日本発祥のメニューで、イタリア人にナポリタンを紹介すると激怒するらしい。彼らはケチャップをソースにするということがどうやら許せないらしい。しかし食べさせると、怒りながらもうまいと絶賛するらしい。我々が、寿司にアボカドやマンゴーを巻かれると、ええ!? となるのと同じかも知れない。ええ!? とはなるがちょっと食べてみたいのも同じだろう。
ナスと豚肉のトマトソース。またナスである。なぜナスばかりかと言えば、父親が家庭菜園でバカほどナスを作ったからである。今年の夏は父親の作るナスとゴーヤ、ピーマンに追い立てられる日々である。もう少し考えて栽培して欲しいものである。
これらの他にも、たとえばペペロンチーノなんかは、もう何年も前から作り続けていて、常に改良を重ね続けている。
それはもう研究者や求道者のような取り組み方である。というより、研究しすぎて、もはやなにをどうすればいいのか、自分でもよく分からなくなっている。
最初のころは、なにも知らずにバターやコショウを使ってペペロンチーノのソースを作っていた。それが禁忌の技であることを知ったときの衝撃ったらなかった。それから、正統とされる作り方を調べてそのように作り始めたのだが、それがどうにもうまくいかない。あんまりおいしくない。結局、野菜を足したり醤油を加えたりしてごまかしてしまう。
かといって、バターやコショウを使う邪道に戻れば理想の味になるのかというと、そうでもないのである。難しい。さながら迷宮をさまよう亡者のごときである。
周囲には「私のペペロンチーノは常に進化している」とうそぶいてはいるが、実は自分でもどうすりゃいいか分かんなくなって手当たり次第に思いつくことをぶち込んでいるだけである。
どなたかこの迷宮を脱出する術をご存知のかたは、どうかご教示いただきたい。
ともあれ、パスタはんまい。
何度食しても飽きない。
しかし、パスタには重大な副作用がある。
太る。
そりゃもう食べたら食べただけ太る。
おかげで、この猛暑にもかかわらず体重は増加する一方である。
もともと、夏の暑さにはめっぽう弱いくせに、何故か食欲だけは衰えないというタイプではあるが、今年はそれが特に顕著に現れている。なんか食べちゃうのである。
そう思って改めてパスタの写真を見ると、量が多い。
自分で作っておきながら、ちょっと愕然とする。
これをひとりで食べるのだから、そりゃ太るはずである。
私もそろそろいろいろとわきまえなければならないのかも知れない。欲望のままに突っ走っている場合ではないのかも知れない。
などと反省しつつ、今日もまた大量のパスタを茹でてしまうのである。
DIY達人への道
そもそも、私は今年、大殺界なのだそうである。
そのせいかどうかは分からないが、今年になって身の回りのものがよく壊れ始めた。
最初は浄水器だった。浄水器から水を出すためのコックの取っ手を、ベキッとやってしまったのである。
幸い取っ手はふたつ付いており、そのうちのひとつを壊しただけだったので、無理をすればまだ使えるだろうという状態ではあった。
しかしそのままにしておいてもうひとつのほうまでベキッとやってしまっては手遅れである。最悪の場合、水が漏れて止まらないという事態にまでなってしまうかも知れない。
そこで私は、コックの交換をすることにした。調べてみると、壊れた部品は販売されており、交換の手順もサイトに詳しく書いてあった。
さっそく私はその部品を注文した。だが、私にはひとつの重大な懸念があった。
そうした工作に関して、私はすこぶる鈍臭いのである。
はーい、お前が鈍臭いのは工作に関してだけじゃないだろとツッコんだそこの君、分かってるよー。怒らないから名乗り出なさーい。
とまれ、かつてまだ私がハツラツとした若やかな中学生だったころ、技術家庭という授業科目があった。
すまん、嘘を吐いた。私の中学時代は、ハツラツとも若やかともしていなかった、どちらかと言えば、どよんとしてじめじめしていた。申し訳ない。
男子は工具を持っていろいろなものを製作し、女子は調理室で料理を学ぶという授業である。
その授業で私は、座れそうで座れない椅子や、鳴りそうで鳴らないラジオ、なにか置けそうで何も置けそうにない飾り棚など、数々の問題作を生み出し、教師や同輩から心配されたという経験の持ち主なのである。
そんな私に、浄水器のコックを交換するなどという難易度の高い作業が果たしてできるのだろうか。
私の不安をよそに、注文した部品は届く。日本の宅配業は優秀である。仕方なく作業を始める。
まずは屋外にある水道の元栓を閉めにいく。水道の元栓の場所を知ったのはこのときである。我ながらいい加減なものだと呆れるが、水道の元栓の場所なぞ、いままで本当に意識してこなかったのだから仕方ない。
重い鉄のふたを開けると、中にダンゴムシやナメクジがワサッといてギャッとなる。それでもなんとか元栓を閉め、台所に戻ってコックの取っ手を取り替える。慎重に、説明書の通りにやったところ、なんとか無事に交換することができた。
元栓を開け、試しに浄水器から水を出してみる。なーんか水の出が悪い。しかし、それではとやり直してにっちもさっちも行かなくなる危険性を私は知っている。なのでそれ以上は触らないことにする。
無事交換できたからそれで良しとせねばならぬのである。
ということで、いま現在も、なーんか出が悪い、と思いながら使っている。
ふたつ目、それから二週間も経っていないころだろうか、今度は浴槽の蛇口が壊れた。いつものように風呂に湯を張ろうと蛇口のハンドルを何気なく回したところ、そのハンドルがカラカラと空回りしてしまったのである。
幸い、湯が出る前に空回ったので出しっぱなしになることは避けられたが、これは困った。
家の風呂は水と湯の蛇口が分かれているタイプで、壊れたのは湯を出すほうだけだったため、浴槽に水を張って追い炊きで湯にするという方法がないわけではないが、しかしそれは迂遠に過ぎる。
時間がかかるし、ガス代もかかろう。ということで、とにかく直してみようということになる。調べてみると、ハンドルが空回りする原因はいくつかあるらしい。症状が重たい場合は蛇口本体をすべて取り替える必要があるという。
そんなことになっていないことを祈りつつ、とりあえずハンドルだけでも交換してみようと、近くのホームセンターへ行き、ハンドルを購入する。
風呂はその夜も使うため、スピード勝負である。ハンドルを交換して治らなければ業者を呼ばねばならない。
家に戻り、水道の元栓をまた閉めに行き、ダンゴムシやナメクジにギャッとなりながら元栓を閉め、風呂場に行ってハンドルを交換する。そして元栓を開け、交換したハンドルを回してみる。
勢いよく湯が出た。
どうやらハンドルのネジ穴が潰れてしまっていただけのようだった。
無事直せたことに安堵したが、よくみると、交換した湯のほうのハンドルと、水のほうのハンドルの形状がまったく違う。ふたつは並んで設置されているため、形が違うとはなはだ不格好である。
これは水のほうのハンドルも変えたほうがいいんじゃないか? とも思ったが、余計なことをしてにっちもさっちも行かなくなる危険性を私は知っている。
そのためいま現在も、なーんか不格好だな、と風呂に入るたびに思いながら使っている。
さらに三つ目、玄関の網戸である。風通しを良くするため、季節のいい時期は玄関を開けっぱなしにしておくのが我が家の慣例であり、そのため玄関には網戸が備え付けられている。
ワンタッチで開閉ができる蛇腹式の網戸である。その網戸が去年壊れた。壊れたのがちょうど秋口だったため、まあ今年はこれでいいか、といい加減な気持ちで放置していたのだが、今年も春を迎え、夏がくる前になって、どうしても新しくしなければならない必要に駆られたのである。
壊れた蛇腹式の網戸をなんとか修繕してみようと試みるが、仕組みが複雑で直せそうにない。しかも、よく見ると網も劣化してところどころが破け、びろびろになっている。
これはもう新しく買い替えるしかないなと思い調べてみると、蛇腹式の網戸はけっこう高価だった。しかも、取り付けもかなり難しそうである。
どうするべきか、直近の二度に亘る成功に気をよくしていた私は、それほど悩まなかった。成功かどうか微妙ではないかと思われるむきもあろうが、私にとっては紛れもなく成功であった。偉業であった。私は成し遂げた者だったのだ。
もっと安価で使いやすそうなものと交換してやる、私はそう決心した。
そして私は、星の数ほどあまたある玄関用網戸(そんなにはない)の製品の中から、これぞというものを選び、購入した。
私が選んだのは、ロール式の網戸だった。
網戸の中心にバネ仕掛けで動くロールが仕込まれており、開閉部の引っ掛かりを外すと、網がキュルキュルとロールに巻かれて網戸が開くというタイプのものである。
その設置作業が大変だった。
まず、古い蛇腹式の網戸を外さなければならないが、これがかなりの手間だった。設置の際、専門の業者に頼んでいたこともあり、やけに頑丈に備え付けられていたのである。
なんとかその蛇腹式網戸をひっべ返し、新しくロール式の網戸を組み立てていく。その際、最後まで触っちゃダメよと書いてあるロール部分を触ってしまい、一気にバネがゆるんで網の巻き取りできなくなったりしたが(ギュルンとすごい音がした)、それをどうにか直しつつ無事新しい網戸を設置することができた。
もう得意の絶頂である。俺ってすごくね? すごいべ? すごかろ? という何弁か分からない言葉で勝ち誇ってしまうほどであった。
しかし、設置してから発覚した問題点がふたつあった。
ひとつは、網戸を閉めたまま玄関のドアも閉めると、網に玄関のノブが当たってしまうという現象が起きたのである。
しかしよくよく考えてみれば、玄関のドアを閉めるときは網戸は常に開いているのであり、どちらともを閉じるという状況設定自体に無理があるため、さしたる問題ではないことが判明した。
「これがこうなるときこっちはこうでしょ? こっちがこうなるときこっちはこうなることはないから大丈夫」というプロの文筆家の面目躍如たる詳細にして正鵠を射る説明で、家人も納得してくれたようだった。
問題はもうひとつのほうである。開閉部の引っ掛かりに、何故か日によって強いときと弱いときがあるのである。
引っ掛かりが弱いときはちょっと触れただけでバーンと網戸が開くし、強いときは引っ掛かりを外すのにかなりの力を要したりする。
なにがどうなって弱くなったり強くなったりするのか、さっぱり分からない。
なにかそういう魔法でもかかっているのではないかとも思うが、それならだれがそんな魔法をかけたのかという話になり、問題は複雑化するばかりなので、そちらの方向は考えないことにする。
とまれ、そんなわけで、いま現在も、なーんか使い勝手がイマイチ、と思いながら玄関を出入りしているのである。
DIYの達人への道のりは、まだまだ長く険しいようである。
花粉症怖い
世の中を騒がせている話とまったく関係ないことで恐縮なのだが、今年、とうとう花粉症になってしまったのである。
花粉症。
実際に自分がかかるまでは、正直なめていた。
周囲にも花粉症にかかっているひとはけっこういるが、みな大げさにつらいアピールをしてるだけなんじゃねーの? くらいにしか思っていなかった。
しかし、これは確かにつらい。
しんどい。
自分がかかってみて、初めて分かった。
全国の花粉症のみなさまには謝罪せねばならない。大げさとか言ってすみません。
まず、鼻水が止まらない。これは本当にびっくりした。特に症状が出始めてからの数日間がひどかった。ティッシュを丸めて鼻につめても、ものの数分でぐっしょりと濡れそぼり、その先端から鼻水が垂れるというありさまだった。(汚い)
滝のような鼻水は幸い数日で収まったが、それからも大変だった。
とにかく全身がだるい。だるくて何もする気が起きない。一日中ずっと眠たい。頭がぼーっとする。なにも考えられない。
ただただ椅子に座ったまま中空に視線をさまよわせ、くしゃみをして鼻をかむ。そんなことをしているだけで一日が終わるのである。
しかしよく考えてみると、私は花粉症になる前から、日がな一日何もする気がなくてぼーっとしており、中空に視線を漂わせながら、あー眠たいなーと、ぼんやり思っていただけなのである。
花粉症になろうがなるまいが、なにも変わらないのである。
いや、私は知らぬ間に、遠い昔からすでに花粉症にかかっているのかも知れない。季節にかかわらず年中飛んでいて、私を怠惰にさせる作用を持つ花粉だ。傍にいる妻はかかっていないようなので、私だけがその花粉にひっかかる特異なアレルギーを持っているに違いない。その花粉はおそらくまだ医学的には発見されていないだろうから、仮に「ナマケモノ」と命名させてもらう。
私はおそらくその「ナマケモノ」花粉に対するアレルギーを幼いころに発症しており、そのせいでぼーっとした状態で長年生きてしまっているのである。
しかし周囲の者はそのことに気が付いていないので、まるで私自身がナマケモノであるかのように認識するのだ。
なんと恐ろしいことであろうか。
これぞまさしく冤罪である。濡れ衣である。
どうかみなさまには、悪いのは私ではなく「ナマケモノ」なのだという正しい認識を持っていただきたい。
とまれ、その「ナマケモノ」のぼーっと加減と、花粉症のぼーっと加減は、あきらかに違う。
「ナマケモノ」のぼーっと加減を「-10」とすると、花粉症のぼーっと加減は「-50」はいくだろう。いや、「-100」くらいまでいくかも知れない。
そもそもスタートがマイナスなんだからあまり変わらないんじゃないかと思われる向きもあろうが、同じ便でも便秘と軟便は違うように、あるいは同じ寂しい頭髪状況(断じてハゲではない)でも前からくるのとてっぺんからくるのとでは違うように、同じマイナスでも10と100ではまったく違うのである。
なんだその例えは。
オラ、書いてて泣きそうになってきたぞ。
そういうわけで、ひどい花粉症にかかってしまった私は、ひとまず病院へ行き、薬を処方してもらい、服用する生活になった。
始終マスクを着け、ワセリンを鼻の周りに塗ればよいと聞くと塗り、ヨーグルトがよいと聞くと食べる。鼻うがいもする。
ちなみに、前回の記事にも書いたアストラルパワーは、なぜか花粉症には効かないようである。
鼻と口の周りを覆うようにアストラルマスクを張るのだが、花粉はそのマスクを華麗にスルーして侵入してくるのである。
ひょっとしたら、不運とか厄難とか、花粉とは違う別のなにかをアストラルマスクは防いでくれているのかも知れないが、そのなにかがなにか分からないため、効いていないと判断せざるを得ないのが現状である。金運は防がなくていいぞ。
アストラルパワーは今のところ、ハゲ、じゃなかった寂しい頭髪状況の改善にも効果を発揮している様子がない。しかしこちらはもう少し気長に経過を見る必要があるだろう。頼む、気長に見るから効果を発揮してくれ。切実なのだ。
そんな風に気を付けていても、外に出ればくしゃみは出るし鼻水も出る。ひどいときは頭痛まで出る始末である。
あと、腰痛もあるし、足もくさい。頭髪状況は相変わらず寂しいまま(だから断じてハゲではない)だし、腹だけはますます出っ張ってくるし、最近は老眼も入ってきた。
すべて花粉症のせいである。
そうじゃなきゃヤだ。
アストラル育毛
髪が薄くなってきたのである。
ハゲ言うな。
断じてハゲではない。
髪が薄くなってきたのである。
日々領土を拡大していく額の猛攻を、私はただ為す術なく呆然と眺めることしかできなかった。
そんなとき、妻が興味深い話を仕入れてきた。
妻の知り合いに、とある気功の先生がおり、その先生から聞いてきた話である。
その気功の先生の患者に、かなり頭髪状況の寂しい男性がいたそうである。その男性にはあと数ヶ月後に結婚式を控えている娘がいたらしく、その男性は、娘の結婚式にこんな寂しい頭髪状況で出席するのが心苦しいとこぼしたという。
すると気功の先生が、では結婚式までに頭髪を増やしましょうと宣言し、その男性は見事、娘の結婚式に盛況たる頭髪状況で出席できたというのである。
事実とすればまさに驚くべき話であるが、さらに驚くべきは、その気功の先生が用いた手法である。
その先生はなんと、患者の肉体ではなく、アストラル体に働きかけることによって頭髪を増やしたというのだ。
アストラル体とは、スピリチュアル方面でいうところの、霊的質量のひとつである。
スピリチュアル世界では、肉体が霊的レベルが最も低く、その肉体と密着するエーテル体なる霊的質量があり、その上位に存在するのがアストラル体であるとされる。アストラル体は精神を司り、アストラル体を整えることで心の不調が解消され、精神の霊的レベルが上げられるという。
そのアストラル体を刺激すればハゲ、じゃなくて薄くなった頭髪状況も改善させられるというのだ。
それが本当なら、なんと素晴らしいことか。
世のハゲ、じゃなくて頭髪状況の寂しい男性諸君の希望の道となるに違いない。
というわけで、私も早速試してみることにした。
妻の説明によると、まずは手の平に、育毛用のヘアブラシのピンのようなものを生やすのだそうである。もちろん、想像の上で、である。アストラル体は目に見えないので、操作するには想像するしかないのである。
手の平を育毛ブラシにしたところで、そのブラシで、頭部から数センチ離れたあたりを優しく叩くのだという。アストラル体は肉体を覆うように存在しているため、肉体から少し離れた場所を叩くことで、アストラル体を直接刺激することができるのである。
それを毎日、時間があるときに続けてみると、頭髪が復活するというのだ。
私は始めてみた。
暇をみては、手に見えないピンを生やし、目に見えないアストラル体を叩き続けた。
とりあえず二週間ほど続けてみたのだが、しかし一向に頭髪がにぎやかになる気配はなかった。
何故なのか。
私は悩んだ。
そしてふと気が付いた。
いくら手からアストラル体のブラシを作っているといっても、手を動かして叩いているという時点で、それは低位である肉体を使って上位のアストラル体を刺激しようとしていることである。それではアストラル体は刺激できないのではないか。アストラル体を刺激するのであれば、同じアストラル体を使わなければならないのではないか。
つまり、肉体としての手を使わず、アストラル手を使ってアストラル頭を直接刺激するのだ。
私は早速チャレンジしてみた。
アストラル手をブラシに変形させ、アストラル腕を動かしてアストラル頭を叩くのである。
肉体を一切動かさなくなるため、見た目には、ただじっとしてぼうっとしているだけである。
手で頭の数センチ上を叩いているおっさんの姿もなかなかシュールだが、ただ中空に視線を投げ出して、よだれを垂らしそうな表情でぼうっとしているだけのおっさんの姿となると、それはもはや恐怖である。早く戻ってこい、さもないと大変なことになるぞ、と声をかけてやりたくなるし、しかしそれも怖くてはばかられる、というような状況である。
とまれ、私はそのアストラル手によるアストラル頭皮マッサージを続けてみた。
しかし、やはり状況は改善されない。
何故なのか。
また私は悩んだ。
アストラル体でアストラル体を直接刺激するということ自体が、技術的に私にはまだ無理なことなのだろうか。
もっとなにがしかの修練を積まなければならないのか。
しかし修練を積んでいるあいだに取り返しのつかない頭髪状況になってしまったらどうすればいいのか。
そんなことを考えていたとき、私はまたはたと気が付いた。
アストラル手でアストラル頭皮を刺激しても、生えてくるのはアストラル毛だけなのではないのかと。
アストラル毛は、肉体的な毛に影響を及ぼさないのではないのかと。
アストラル毛がいくらふさふさになっても、それが物質としての毛に作用しなければ、アストラル無駄である。
本当にそうなのだろうか……。
私は愕然としたが、現実としてなんの変化もない以上、そう考えるより他ない。いや、考える他は実はいっぱいあるが今は考えない。こういう思考態度がすべての原因のような気もするが、今はもう考えない。
しかし、せっかく始めた実験なので、今しばらくは続けてみたい。
諸君、次会ったとき、私の頭髪状況がにぎやかになっていたら、アストラルびっくりしてくれたまえ。
水が怖い
水が怖いのである。
といっても、蛇口から出る水や、浴槽の水ならどうということもないし、25mのプールくらいならまだ大丈夫なのだが、溜め池ほどの大きさになるともうダメである。
車で走行中、カーブの先で突然溜め池が現れたときなどは、「ふあっ!」と声が出るときがある。
明石海峡大橋や瀬戸大橋を渡るとなるとまさに地獄である。走行中ずっと「ひゃあひゃあ」と声を上げてしまう。怖くて黙ってはいられないのである。
それに、そういった橋では左側の走行車線を走れない。ずっと右の追い越し車線を走っている。
少しでも水を視界に入れないようにしたいのだ。
四国で出会った沈下橋も恐怖だった。沈下橋とは、川の水面ぎりぎりの高さに作られた橋のことである。
つまり、道路の端がすぐ水なのだ。我ながらよく渡ったものである。もちろんこのときも「ひゃあひゃあ」言って同乗していた友人をうんざりさせた。本当に怖かった。今思い出しても震えがくる。二度とごめんである。
海水浴にもほとんど行ったことがない。行ったところで、海の家から一歩も出ずビールを飲む。ひたすら飲む。あれはあれでうまい。夏の海はビールである。冬の屋内でもビールだが。お陰で腹が全然引っ込まない。誰かどうにかしてください。ほんとよろしくお願いします。
なんの話だったか、そう、水が怖いという話である。
海といえば、幼い頃から見てきた海は全部瀬戸内海だった。瀬戸内海はあちこちに島が点在し、舟が行き交い、人間の生活の息遣いが漂う海である。そういう海を見慣れていたため、初めて日本海を見たときは愕然とした。島がひとつもなく、舟が一艘も走っておらず、波は高く、色は濃く、ただただ、ひたすらずどーんと海なのである。その茫洋とした広大さ、想像の付かない果てしなさに、わけもなく途方に暮れて、言い知れない不安に襲われた。
かように私は水が怖いのだが、あるとき、ひょんなことから知り合いになった占い師に、四柱推命で自分の運勢を見てもらったところ、驚くべきことを言われた。
四柱推命では、人間には木火土金水という五つの性質が備わっているといい、その五つのバランスでその人の運勢がある程度判別できるらしい。
正五角形の頂点に木、火、土、金、水をそれぞれ置き、占ってもらう人の生年月日や生まれた時間、名前の画数などから導き出した値をひとつひとつ当てはめて、いわゆる、レーダーチャートと呼ばれるグラフを作る。
このとき、チャートの形が正五角形に近ければ近いほどバランスがいいということになるのだが、なかなかそんな人はおらず、だいだいみなどこかしら飛び出したりへこんだりして偏っている。その偏った形がその人の性質を表すのである。
私もそうやって見てもらったのであるが、私はなんと、木火土金水のうちの水の値だけがずどーんと値が高く、他の四つの性質はほとんど持っていないという結果になったのだ。
そのチャートを見た占い師が「計算を間違えたかな?」とか「パソコンが壊れたかな?」(今の時代、占いもパソコンでできるのである。なんか興ざめである)と首を傾げながら、何度もやり直したのだが、結果は常に同じだった。
私はどうやら、水の性質だけを通常の5~10倍ほど持っているという特異な人間であるらしい。
「珍しい珍しい」と占い師も連呼していたので、よほど珍しいのだろうと思う。
とにかく水の性質だけをずば抜けて持っているため、偏りも甚だしく、それが原因でさまざまなトラブルにも見舞われるだろうという。
「なるほど、じゃあオレは、前世ではそっち系の妖怪だったのかも知れませんね」と冗談をいうと、占い師は神妙な顔をして頷いた。
誰がそっち系の妖怪やねん。オレは河童か。前世が河童てどういうことやねん。尻子玉抜くぞコノヤロウ。河童と言えば西遊記の沙悟浄が有名だけど、原作では沙悟浄は河童じゃねえんだぞチクショウ。じゃあなんの妖怪かって? フザケンナ自分で調べろ。一応教えといてやるけど、河伯っていう仙妖だワカッタカ。それがあんまり有名じゃないってんで、日本語に訳すときに河童に変えられたんだってよ。なかなか無茶してくれるじゃねえかバカヤロウ。河伯と河童はめっちゃよく似てて、河童のルーツは河伯とも言われてるらしいけど、その割りに、河伯はかなり強くて格の高い妖怪なんだよ。西遊記の河童といえば目立たない脇役で、冴えないおっさんの岸部シローが適役だ、キャスティングが絶妙だと思っていたオレの純真な子供心を返せコノヤロウ。ていうか、子どものころにそんなことまで考えてねえよ。なんていうか、結局なにが言いたいのか分からなくなってんじゃねえか。もう誰かオレの尻子玉を抜いてくれチクショウ。
……申し訳ない。少々取り乱してしまった。
とまれ、そこまで水の性質を持っていながら、何故水が怖いのか。
それを自分なりに考察してみたところ、おそらく、水との親和性が高すぎる私の性質を、私の本能が危険と判断して必死に押し留めているからなのではないかという結論を得た。
つまり、油断するとすぐに水に引き寄せられそうになってしまうところを、生存本能が「あんまり近付くと大変なことになるぞ」と警告を発し、その警告を意識の側が、「水が怖い」と認識して近付かないように制御しているのではないか、ということである。
科学的な根拠はまったくないが、私としてはそんなふうに思っている。
落語で言う「まんじゅう怖い」と同じである。(たぶん違うと思う)
あるいは、「嫌よ嫌よも好きのうち」と同じである。(だからたぶん違う)
そしてそれが正解であるとするなら、私の水への恐怖心は、克服しようのないものである、ということになる。
克服しようとするなら、それこそそっち系の妖怪にでもならないと無理なのではないか。
って誰がそっち系の妖怪やねん!
ウンチク漫才
私 「どうもー。なんやかんや言うてやらせてもらっているんですけどもね」
相方「ちょっと聞いてくれる?」
私 「どないしたんや?」
相方「こないだ病院で検査してもうたらな、中性脂肪の値が高いなあって言われてしもて」
私 「それは困ったこっちゃな」
相方「せやねん。それでな、なんやエパデールっちゅう薬が中性脂肪を抑えてくれるらしいて聞いて、買ってみようかと思うてるんやけど、薬に頼るのもちょっと怖いなと思うてな。どうなんや? 君、そういうの詳しいやろ?」
私 「なるほど、エパデールな。脂肪異常症の治療薬や。昔は処方してもらわんと買われへんかったんやけど、今ではネットでも気軽に買えるんやから、すごい時代になったもんやな。で、そのエパデールやけどな、主な成分はEPAなんや。知ってるか? EPA」
相方「EPA? なんやそれ、知らんわ」
私 「イコサペント酸言うてな、青魚にようさん含まれてるて話題になった成分やねんけど」
相方「青魚にようさん含まれてるんはDHAとかいうやつやなかったっけ?」
私 「おっ、よう知ってるな。そうや、DHAとEPA、青魚にはそのどっちもが豊富に含まれてるんや。で、このEPAというやつが中性脂肪の合成を抑えたり血液をさらさらにして代謝を促進したりするわけやな」
相方「へー、すごいな。ということは、やっぱり服用したほうがええのか?」
私 「ところがや、薬やからやっぱり副作用がある」
相方「えっ、副作用?」
私 「そうや。エパデールの副作用には、腹痛とか下痢、発疹とか胸やけとかが多いみたいやな。ひどいときには、肝臓に障害が出たり、黄疸が出たりもするらしい。それに、血液をさらさらにするから、出血したらなかなか止まれへんようにもなるみたいやな」
相方「なんやそれ。めっちゃ怖いやんか」
私 「まあ、用法用量を守ってればそんなに怖いものではないんやけどな」
相方「なんや薬のCMみたいなセリフやな」
私 「EPAを摂るんなら、薬より食物からのほうがええかもな」
相方「やっぱり青魚か?」
私 「せや。サバとかサンマとかイワシとかやな。マグロとかカツオもええで」
相方「ほー。せやけど魚を毎日食べるのはちょっと大変やな」
私 「そもそもEPAとかDHAっちゅうのは、オメガ3系不飽和脂肪酸っちゅう必須脂肪酸に分類される栄養素でな、オリーブオイルとかエゴマ油とか亜麻仁油とかも含まれるんや」
相方「脂肪酸? 中性脂肪を取るのに脂肪を摂るのか、なんやけったいな話やな」
私 「脂肪っちゅうのはエネルギー源やからな。使われんと体ん中に溜まった状態があかんだけで、適量は体に必要なんや。で、その脂肪にも、ええ脂肪と悪い脂肪がある。不飽和脂肪酸がええ脂肪なら、飽和脂肪酸に分類されるのがあかん脂肪や」
相方「飽和脂肪酸?」
私 「バターとかマーガリン、ラード、肉の脂身とかやな。常温で固体のものが多いのが特徴や。不飽和脂肪酸は常温では液体のが多い」
相方「全部オレの好物やないか」
私 「せやから中性脂肪が溜まるんやないかい。これからは肉は控えて魚にせい。バターは止めてオリーブオイルや。ちなみに、EPAとかDHAは、朝に摂るのがもっとも効果的らしいで。焼き魚をメインにするとなると、やっぱり和食や。わかめのみそ汁に納豆に焼きサバ、和食は最高やな」
相方「和食もええけど、毎日やと飽きるかもな。というか、そこまで知ってるからには、お前は毎朝和食なんやろな?」
私 「いや、オレは朝はトーストにコーヒーだけやけど。トーストにはマーガリンべったり塗ってな」
相方「なんでやねん。和食にしろよ」
私 「面倒くさいやん。わかめ嫌いやし」
相方「お前、今一番言うたらあかんことを言うたぞ。健康のためには和食がええねやろ? それが分かっててなんでそうせえへんねん」
私 「あのな、オレみたいな怠け者であかんたれでひとさまに迷惑しかかけへん嫌われ者が、健康に気を遣って百歳まで生きたところで、なにか社会の役に立つと思うか?」
相方「……」
私 「悩むな! そこははっきり否定してくれよ。お前からオレを褒めるという機能がなくなったら、それこそなんの役に立つんや」
相方「ひとを壊れたパソコンみたいに言うなや」
私 「そんなこと言うたら壊れたパソコンに失礼やないか」
相方「えっ、オレ壊れたパソコンより下なの?」
私 「まあ、それ以上は傷つけるから言わんけど」
相方「言うてるのと一緒やぞ」
私 「食事の話に戻るけどな、食事っちゅうのは、なにを食べるかも大事やけど、食べるタイミングっちゅうのも大事なんや。毎日規則正しく同じ時間に食事をするというのが大切なんやな」
相方「なるほど。でも僕らみたいな仕事をしてると、毎日同じ時間に食事をするというのはちょっと難しいよな」
私 「せやな、不規則な仕事やからな。せやけどな、生活習慣病という言葉があるやろ。結局健康というもんは、毎日の生活の中で、いつなにを食べてるのか、体をどれくらい動かしているのかというようなことが、年齢とともにいずれ体に表れてくるで、ということやからな。せやから、薬飲んで一発でようなって欲しい、みたいな発想はせんほうがええで。あかん生活をしてるとあかん体になるし、ええ生活を心がけてると長生きできるんや。当たり前のことやけどな」
相方「ええこと言うたな。そうなると気になるから聞くけど、昨日の君の食生活はどんな感じやったんや?」
私 「オレか? 昨日は朝10時頃に起きて、マーガリンべったり塗ったトースト食べて、コーヒー飲んで、昼は2時過ぎやったかな、なんや腹減ったなあと思うてラーメン食べて、それから仕事行って終わったんが夜の11時くらいやったから、12時ごろに焼肉屋に行って肉をたらふく食べた」
相方「全然あかんやんけ。そんな生活してて、よう健康のことが口にできるな」
私 「せやから言うたやろ、オレみたいな男が長生きしても迷惑なだけやって」
相方「……」
私 「いやせやから、そこはすぐに否定せんかい。もうええわ」
相方「ありがとうございました」
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いつだったか、友人の娘さんに「ウンチク野郎」という名誉ある称号をいただき、それがかなり悔しかった嬉しかった(いや嬉しかったというのも違うか)気に入ったので、ちょっと「ウンチク漫才」というのを考えてみたのだが……。
やっぱり駄目だな。ウザったいばかりで面白くないな。このあたりが「ウンチクブタ野郎」の限界かも知れんな。本職の漫才師はやっぱりすごいというのを再確認。「ウンチククソ野郎」の名にかけて、もっと精進せねば。そうでないと、いつまで経っても「ウンチクばかり言いやがってうんざりなんだよこのハゲ野郎」の悪名から抜け出せないぞ、ってハゲって言うなよ。頭のことはいいだろうがよ。言っていいことと悪いことがあるんだぞホント。
きれいなコップ
ときおり、なにかの拍子にふと思い出すことがある。
子どものころの話だ。
あれは確か、私が小学2年か3年、あるいはそれ以外のころのことで、授業中だったか、あるいはそうではなかったときのことだ。
当時担任だった女性教師が、黒板に大きくコップの絵を描いた。円筒状で、口に向かって少し広がっている、どこにでもある普通のコップだ。
そのコップを指して、女性教師が言った。
「このコップはあなたたちです。そして、成長するということは、このコップに水を注ぐということです。きれいな形のコップだと、水は縁まで入りますね。でも、コップが一部分でも欠けていたら、どうなりますか?」教師はそう言いながら、コップの縁の一部を消し、深いひび割れを書き足した。「こうなると、水はこのひびのところまでしか入りません。たとえ他の部分が高く伸びても、ひとつひびがあれば、水はそこまでしか注げないのです。これはひととして大きな欠点があるということで、とても残念なことです。ですからみなさんには、いびつな形のコップではなく、きれいな形のコップを目指して欲しいと思います」
この話を聞いたとき、私は子どもながらも、直感的に「嫌だな」と思った。
そのときはなにが「嫌」なのかをきちんと理解できなかったが、今ではどうにかその気持ちを言語化できる。……と思う。きっと多少は。百パーセント言い表すのは無理だろうけど。ていうか無理。ちょっとだけね。ちょっとだけ、そういうことにしておいてください。(言い訳が長い)
そしてこのことを思い出す度、私はいつも思う。「嫌だな」と思った気持ちを、たとえどのように言語化しても、件の女性教師本人には届かないのではないだろうかと。思いつく限りのあらゆる方法で説得を試みても、あの教師の心には僅かな変化も与えられないのではないかと。
無論、女性教師の主張に賛同されるかたもおられるだろう。破綻した人格の人間が自分を正当化したいだけだ、説得するなどおこがましい、そう言われれば、その通りかも知れない。
しかし、だからといって私は「主張はひとそれぞれだから別にいいじゃない」というような、近年流行りの相対論は使いたくない。人間は、それが意図的であるかどうかは別として、常に自身の考えを周囲に理解してもらおうと、自らの主張を押しつけがちになってしまうものだし、互いに影響を受けたり与えたりしながら生きて行くものだからである。それを軽視するような「ひとそれぞれなんだから放っておけ」という発想は、安易に過ぎると常々思っている。
要するに私は、件の女性教師に、私のような者もいる、ということを理解して欲しいのだ。
反省とか改心とか、そんな大仰なものを求めているわけではまったくなく、ただ、たとえいびつな形のコップでも、コップはコップなのだということを「共感」して欲しいだけなのだ。
そういう気持ちが、私の本を書く動機のひとつなのかも知れない、そんなことをふと思った次第である。
しまった。なんか真面目な話になってしまった。
うんこちんちん。しまった。よりにもよって小学生以下のギャグを使ってしまった。
ちなみに、「雲湖朕鎮」と書いて秦の始皇帝が残した言葉などと言われているのはガセネタだから注意してください。ってなんのフォローにもなってない。