べっちょない日々

作家の末席を汚しつつ、しぶとく居座る浅田靖丸のブログ

きれいなコップ

 ときおり、なにかの拍子にふと思い出すことがある。
 子どものころの話だ。
 あれは確か、私が小学2年か3年、あるいはそれ以外のころのことで、授業中だったか、あるいはそうではなかったときのことだ。
 当時担任だった女性教師が、黒板に大きくコップの絵を描いた。円筒状で、口に向かって少し広がっている、どこにでもある普通のコップだ。
 そのコップを指して、女性教師が言った。
「このコップはあなたたちです。そして、成長するということは、このコップに水を注ぐということです。きれいな形のコップだと、水は縁まで入りますね。でも、コップが一部分でも欠けていたら、どうなりますか?」教師はそう言いながら、コップの縁の一部を消し、深いひび割れを書き足した。「こうなると、水はこのひびのところまでしか入りません。たとえ他の部分が高く伸びても、ひとつひびがあれば、水はそこまでしか注げないのです。これはひととして大きな欠点があるということで、とても残念なことです。ですからみなさんには、いびつな形のコップではなく、きれいな形のコップを目指して欲しいと思います」

 この話を聞いたとき、私は子どもながらも、直感的に「嫌だな」と思った。
 そのときはなにが「嫌」なのかをきちんと理解できなかったが、今ではどうにかその気持ちを言語化できる。……と思う。きっと多少は。百パーセント言い表すのは無理だろうけど。ていうか無理。ちょっとだけね。ちょっとだけ、そういうことにしておいてください。(言い訳が長い)

 そしてこのことを思い出す度、私はいつも思う。「嫌だな」と思った気持ちを、たとえどのように言語化しても、件の女性教師本人には届かないのではないだろうかと。思いつく限りのあらゆる方法で説得を試みても、あの教師の心には僅かな変化も与えられないのではないかと。
 無論、女性教師の主張に賛同されるかたもおられるだろう。破綻した人格の人間が自分を正当化したいだけだ、説得するなどおこがましい、そう言われれば、その通りかも知れない。
 しかし、だからといって私は「主張はひとそれぞれだから別にいいじゃない」というような、近年流行りの相対論は使いたくない。人間は、それが意図的であるかどうかは別として、常に自身の考えを周囲に理解してもらおうと、自らの主張を押しつけがちになってしまうものだし、互いに影響を受けたり与えたりしながら生きて行くものだからである。それを軽視するような「ひとそれぞれなんだから放っておけ」という発想は、安易に過ぎると常々思っている。

 要するに私は、件の女性教師に、私のような者もいる、ということを理解して欲しいのだ。
 反省とか改心とか、そんな大仰なものを求めているわけではまったくなく、ただ、たとえいびつな形のコップでも、コップはコップなのだということを「共感」して欲しいだけなのだ。 
 そういう気持ちが、私の本を書く動機のひとつなのかも知れない、そんなことをふと思った次第である。

 しまった。なんか真面目な話になってしまった。
 うんこちんちん。しまった。よりにもよって小学生以下のギャグを使ってしまった。
 ちなみに、「雲湖朕鎮」と書いて秦の始皇帝が残した言葉などと言われているのはガセネタだから注意してください。ってなんのフォローにもなってない。