長風呂化プロジェクト
風呂が苦手なのである。
体や髪を洗うのも面倒で苦手なのだが、さらに苦手なのが、湯船にゆっくり浸かることである。
一応浸かるのは浸かるのだが、「ああ〜、極楽極楽」とひと唸りした途端、すぐに出てしまう。
いわゆる、カラスの行水というやつである。
以前はそうでもなかった。
風呂の中でオモチャで遊んだり、本を読んだりしていたこともあったのだ。
それがいつの間にか、できなくなってしまっている。
加齢か?
おっさんになって、湯船に長く浸かれないほど体力が落ちているのか?
しかし、もし仮に加齢のせいだとしても、そこまで体力がないというのは、人間として大丈夫なのだろうか。
大丈夫ではないだろう。
むしろダメだ。
何てこった。
私は人間として大丈夫じゃないのか。
むしろ人間としてダメなのか。
私の人生に価値はないのか。
私という存在とは何なのか。
そのような哲学的問答を繰り返した結果、私は、「長風呂化プロジェクト」を起ち上げることを決意した。
プロジェクトの概容は「湯船の中で何かする」「それを習慣づける」のふたつである。
しかし、何かする、と言っても具体的に何をすれば良いのか?
まず思いついたのが、軽い運動やマッサージである。
早速やってみた。
のぼせた。
湯船の中で体を動かすのは、半端なく疲れることが分かった。
やはり、体力のないおっさんには、いきなり難易度が高すぎたようだった。
となると、他に何かできることはあるだろうか?
何かを暗記するというのはどうだろう。
うろ覚えのことを、きちんと覚え直すのだ。
とはいえ、アルファベットの順番や、歌を歌うというのでは簡単すぎるし、かといって、日本国憲法の前文を唱えるとか、元素記号を全部言うなどというのでは難しすぎる。そもそも覚えていない。
何か他にないか。私は首をひねった。
仕事のことを考えなさいよ、という至極まっとうな意見が頭に浮かんだが、無視する。
悩んだ末、思いついた。
「九九」だ。
自分でも馬鹿かとは思うが、実は薄々気が付いていた。
もうずいぶん前から、九九が記憶から消えつつある。
特に、七の段や八の段が怪しい。
一応そらんじることはできるのだが、たとえば、「しちしち」と口に出した場合、すぐに答えが出てこない。「えーっと、あー、しじゅうく?」というくらいの間が開く。しかも語尾にクエスチョンマークがつく。
これはいかん。
由々しき事態である。
そしてある日、私は湯船に浸かって早速九九をそらんじてみた。
のぼせた。
私は私が考えていた以上に馬鹿だった。
というわけで、最近私は湯の中で九九を唱えている。
私が九九を再制覇するのがいつのなるかは分からないが、どうあれ、私の人生があまり大丈夫じゃなさそうなことだけは確かである。