「ダーク・シャドウ」鑑賞
「ダーク・シャドウ」
監督 ティム・バートン 出演 ジョニー・デップ ミシェル・ファイファー ベラ・ヒースコートなど
あらすじ
1752年、イギリスからアメリカへ移住したコリンズ家は、水産業を手がけて財をなし、町の名士となる。
そのコリンズ家の二代目の当主、バーナバス・コリンズ(ジョニー・デップ)は、当時雇っていた女中、アンジェリーク・ボーチャード(エヴァ・グリーン)に手を出し、火遊びにふけるが、ヴィクトリア・ウィンターズ(ベラ・ヒースコート)と出会って恋に落ち、アンジェリークを振ってしまう。
そのアンジェリークは魔女だった。彼女によってヴィクトリアは自殺させられ、さらにはバーナバスも、呪いをかけられヴァンパイアにさせられてしまう。
ヴァンパイアとなったバーナバスは、それでもヴィクトリアへの愛を忘れなかった。そのせいで、逆上したアンジェリークによって棺桶に閉じ込められ、地中深く埋められる。
それから年月が経ち、1972年。バーナバスは道路工事の最中に地中から掘り起こされ、復活を遂げる。約二百年ぶりに自分の屋敷へ戻ったバーナバスが見たのは、没落したコリンズ一族の姿だった。
現在のコリンズ家の女主人、エリザベス(ミシェル・ファイファー)によると、生業としていた水産事業をライバル会社に奪われたのだという。早速そのライバル会社へ偵察に向かうバーナバス。しかしそこ会社の女社長こそ、バーナバスをヴァンパイアにした張本人、アンジェリークだった。アンジェリークは黒魔術によって不死を得て、姿を変えつつ現代まで生き続けていたのである。
打倒アンジェリークを掲げて会社を復興させることを誓うバーナバスだったが、彼にはもうひとつ気になることがあった。屋敷にはデイビッドというエリザベスの甥が住んでいるのだが、その甥の家庭教師ジョセッテが、かつての恋人ヴィクトリアと瓜二つなのだった。
急速に接近するバーナバスとジョセッテ。そのふたりの仲を再び引き裂こうとするアンジェリーク。
彼らの争いの果てには何が待っているのか。
感想
この「ダーク・シャドウ」は、ご存知、ティム・バートンとジョニー・デップのコンビによる新作映画である。
古いテレビドラマのリメイクであるらしい。
映画を評するとき、私はよく、好き嫌いや勝手な思い込みなどで作品を語るべきではない、というようなことを言う。ミステリーだと思っていたらホラーだったからダメ、とか、ハッピーエンドが好きなのにバッドエンドだったからダメ、とか、そういうのは評価ではないだろうと思うからである。ミステリーじゃなくホラーだったけれど、ではホラーとして自分の中ではどういう位置づけになるのか、あるいは、バッドエンドではあったけれどそこにどのような意図があって自分にはどういう価値が見出せるか、とか、そういったことを考えるのが作品を評する上での土台であるべきだろうと思うし、ここへ記す感想も、最低限そこはクリアしたいと常々考えている。
その上で、ひとつ言いたい。
この作品は、ティム・バートンとジョニー・デップのコンビならこういう感じになるんだろうな、と観る前から勝手に思っていた通りの、そのままの作品であった。
前言を思い切りひっくり返すことになってまことに心苦しいのだが、本当にそうなのである。
映画を観た帰りに、映画部員のあいだで毎回繰り広げられる「車中批評会(という名の雑談)」においても、今作は、「普通に面白かった」という言葉以上の感想が出てこなかった。「ブログにどのように書こう?」と私も思わず弱音を吐いたほどである。
まあ、面白い。
ティム・バートンとジョニー・デップが組んで面白くないはずがない、というのがそもそもハードルを上げすぎなのか?
結局私も好き嫌いや勝手な思い込みにどっぷりはまったまま映画を観ているのか?
そこに気付かず、作品を客観的に評した気になって自己満足に浸っているだけの愚か者なのか?
……という自問自答は、ものすごく重要な問題であるような気もするが、同時にものすごく落ち込む問題のような気配がするので、ひとまず置いておいて。
細かいことを言うようだが、ちょっと腑に落ちないところが散見される。
そもそもアンジェリークは、自分を振った憎い相手を何故ヴァンパイアにしなければならないのか、彼を永遠に苦しめるためだと言うが、それなら何故地中に埋めたのか、それに何故自分まで不死を得て生きながらえているのか、つか、魔女って人間をヴァンパイアにできるのか? そんな黒魔術あるの? つか魔女強すぎるだろ、うわ唐突に人狼(ワーウルフ)出てきちゃったよ、などなど、いろいろあるのだが。
私も別に、重箱の隅をつつきたいわけではないし、設定のすべてを劇中で明らかにせよと言っているわけでもない。
そうではなくて、そういった疑問を吹き飛ばすほどの面白さが欲しいと言っているのである。
そして残念ながら、そういった疑問を吹き飛ばすほどの面白さは、この作品には見受けられなかった。
何故だろう。おそらく……
と、ここから近年の映画表現の底流にある思想的背景のその成功と失敗、そして将来に向けて表現そのものが問われるであろう社会的価値から個の価値のあいだにある煩悶といった問題を、深い洞察と鋭く斬り込む言説でつまびらかにしようと思っていたのだが、飲みの誘いの電話がかかってきたので、残念ながらここで筆を置くことにする。
あえて偉そうに言えば、つまりはまあ、飲みの誘いに負けるほどの、それくらいの映画であったということである。