べっちょない日々

作家の末席を汚しつつ、しぶとく居座る浅田靖丸のブログ

ジャズライブ&詣で部

 先日の日曜日、黒田庄のフォルクスガーデンと呼ばれる場所でジャズライブが開かれるというので、足を運んでみた。
 フォルクスガーデンは、黒田庄の山間にあるイングリッシュガーデンで、深い谷間に作られたかなり大きな庭と、それを管理するためのロッジがあるという場所である。
 ジャズライブはそのロッジで午後三時から開かれた。
 サックス奏者の家永慎也氏とピアノ奏者の中島徹氏のデュオである。
 私はそれほどジャズに造詣が深いわけでもなく、寡聞にしておふたりの名前を聞いたことはなかったのだが、彼らの演奏は素晴らしかった。
 いきなりハジけた「A列車で行こう」から始まり、ボサノヴァの「イパネマの娘」(だったと思う)が入り、「night and day」で突然ナイトリーな雰囲気になり、中島氏のピアノソロでのデューク・エリントンの曲二連チャン(寡聞にして曲名は覚えていない)、かと思いきや唐突な「カントリー・ロード」など、多彩なジャンルを自在に行き来しつつ、豊穣に広がるな世界観に感服、めくるめく心地よいひとときを存分に堪能する。蛇足だが、サックスの家永氏が男前で、なんか妙に悔しい。寡聞にして、太刀打ちできないのが明白なのについ悔しがってしまう自分がさらに悔しい。男前がサックスを持ってはいけない。それもあんなにうまいなんて、完全に反則である。寡聞にして、金棒を持った鬼が土下座して謝るほどであろう。私なんぞ、寡聞にして足元にも及ばないのは言わずもがなである。さっきから「寡聞にして」の使い方がおかしいのはそのせいである。(どのせいだ)

 酒も入り、(ワンドリンク制で、お酒もあったのである)ほわんと気持ちよくなったのだが、ライブが終わって、ひととおり雑談なども済んで時計を見ても、まだ夕方の五時であった。
 河岸を変えて飲み直すにしても、まだ早い。
 どうするか、そこで私は思いついた。
 詣で部を開こう。
 実は、私は今年、前厄らしいのである。
 寡聞にして(使い過ぎである)私はそういうことに疎く、ひとに言われるまで知らなかったのだが、どうやらそういうことらしい。
 そして厄落としには、住んでいるところより南の方角の神社に行かねばならないという。
 もっと早くにその話を聞いていれば、先日の姫路の広峯神社で厄落としの祈願をしてきたのだが、寡聞にして(またでた)そのときの私は自分が前厄であるということを知らず、従って厄落としの祈願をしていなかったのである。
 あまり熱心な信心を持っていない私は、「まあ、また今度、時間があるときについでにお参りすればいいや」というくらいに考えていたのだが、妙に時間が空き、詣で部の部員も揃っているとなれば、これは絶好の機会ではないか、と思ったのである。
 部員のふたりも異存はないということで、車に乗り込む。私もK氏もお酒を飲んでしまっているので、K夫人の運転である。その節はお手を煩わせてしまい、大変申し訳ございませんでした。以後、このようなことがないよう善処いたす所存にございますので、どうかなにとぞご勘弁いただきたく、よろしくお願い申し上げます。
 K夫人の危なげのない、確かな技術の運転によって安全に出立した我々だが、問題は行き先である。
 近いと住所より北側になるし、かといって、あまり遠くには行きたくない。
 そこで私が閃いたのが、隣町の加東市にある「吉馬厄除八幡宮」だった。
 といっても、その名前がすぐにぽんと出てきたわけではなく、「あの〜、国道の一本こっち側の道をずーと行ったところのさ、ゴルフ場の手前の、田んぼのあいだをじゅーっと入っていったところに何か神社があっただろ? あそこでいいんじゃね? 厄除けかどうか分かんないけど、まあそれはどっちでもいいよ、よくないか? わはは」みたいな感じで向かったところ、何とそこが厄除けの神社だったのである。さすが私の人徳である。あ、いや、奥さまの素晴らしい運転の賜物でございます。
 
 

吉馬厄除八幡宮

 拝殿までの急な階段を上り、境内を眺める。先客がいる。六十がらみの男性である。彼は拝殿で手を合わせたあと、境内の右手にある公園へ移動し、ランニングを始めた。どうやらそれが毎日の日課になっているのだろう。
 私も賽銭箱に小銭を投げ入れ、厄除けを願う。
 本当は、神主がいらっしゃるときにきて、ちゃんと祈祷してもらうべきなのだろうが、何故かそこまでの気持ちにはなれない。詣で部などと言っているわりに不信心である。
 しかしこの吉馬厄除八幡宮のその奥にはさらに、愛宕神社があるらしい。そしてその山道はぐるりと一周できるハイキング・コースになっているらしい。
 愛宕神社といえば落語の「愛宕山」である。寡聞にして(忘れた頃にでてきた)それしか思い浮かばない。
 行くか、とも思うが、寒いし、「愛宕山」も春の話だったしな、と落語のせいにしてやめる。
 また、季節がよくなって、天気もいい日で、気分も乗っていて、体調も万全で、なんの悩みごともなく、しかし神頼みがしたい、というときにでも行ってみたいものである。

 というわけで、私の厄除けは――正確には、前厄の厄除けだが――これにて一応終了。
 だがまた何か厄に関する情報を耳にして、びびって違うところへ行ってしまうかも。
 寡聞にして(使い方が本当に分からなくなってきた)不信心だが無信仰には徹せない、宙ぶらりんな人間なのである。