べっちょない日々

作家の末席を汚しつつ、しぶとく居座る浅田靖丸のブログ

「タイム」鑑賞


「タイム」
監督アンドリュー・ニコル 出演ジャスティン・ティンバーレイク アマンダ・サイフリッド など

あらすじ
 科学技術の発展により老化が完全に克服され、肉体的に25歳以上年を取らなくなった社会。そこは、貨幣の代わりに時間が流通する社会だった。
 スラムで生まれたウィル(ジャスティン・ティンバーレイク)は、毎日工場で働き、その対価として数時間分の時間を得て、爪に火をともすような生活を送っていた。
 そのウィルの母親が、明日50歳の誕生日を迎えるという日、仕事帰りに行きつけの酒場に立ち寄ったウィルは、そこで豪勢に「時間」を使って飲んだくれている男、ハミルトンと出会う。ハミルトンは富裕層の人間で、百年を超える時間を持っていた。派手に遊んだせいでギャングに目を付けられたハミルトンを助け出すウィル。しかしハミルトンは、すでに生きる気力を失っていた。
 ウィルに自分の「時間」を分け与え、自殺するハミルトン。ウィルは、もらったその「時間」で母とともに富裕層の暮らす町に移り住もうと考える。しかし、値上がりしたバス代が払えず、走って帰らなければならなくなった母が、探しに出たウィルの目の前で、「時間切れ」になって死亡する。
 母を亡くした絶望の中、ウィルは不条理な社会への怒りを胸に、富裕層の町へと乗り込む。
 そこでウィルは、シルビア(アマンダ・サイフリッド)という女性と出会う。シルビアは富裕層きっての大富豪のひとり娘だった。時間を不正入手した疑いで時間監視局に追われていたウィルは、シルビアを人質に取り、スラムへ逃げ帰る。そこでウィルとシルビアは、貧困層と富裕層の格差を埋めようと、ある計画を実行するが……。

感想

 以下、ひどいネタバレがありますので、未見の方は読まないようにしてください。
 読んでしまって「てめーそれ言ったらおしまいだろうがよー」と文句を言われても当方は責任を負いかねますので、ご了承ください。

 ということで、久しぶりの映画部である。
 前回、詣で部と抱き合わせで活動しようとしたところ、時間が間に合わなくなり観にいけなかったので、その反省を踏まえ、今回は絶対神社には寄らない、と部員全員固く誓って出発する。
 しかし昼食をとろうとして道に迷ったりしているあいだに時間はどんどん過ぎ、(ナビ役のK氏が左右を間違えて指示を出したのである。いいでちゅか? 左はお茶碗を持つ方、右はお箸を持つ方でちゅよー。しっかり覚えて、間違わないようにちまちょうねー)結局遅刻である。過去の失敗から何も学んでいない私たちである。何故学ばないのか、それは反省がないからであり、反省がないのは自覚がないからである。今回の失敗は、単なる遅刻ではなく、私の人生においての致命的な欠点を象徴するクリティカルな問題であり、これを克服することこそが私の人生に意義と意味を付与することに繋がるであろうと思われるのである。などと考えてみたところで、上映が始まっておそらく数十秒というタイミングで席に着けたので、やれやれ何とかぎりぎり間に合った(間に合っていないのだが)という感想しかなく、これが反省のないところなのである。
 とまれ、「タイム」である。
 以下本当にネタバレなので、観ていない方は本当に読まないでいただきたい。

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 この「タイム」という映画は、つまるところ、ボニーとクライドである。
 愛し合う男女が、自分たちの信念を貫くために反社会的行動に出る、という展開が、もろにそのまま焼き写しなのである。
 しかし、この「タイム」という映画には、ボニーとクライドの作品のような、(さすがに映画のタイトルまでは書かない方がいいと考える)ひりひりとした焦燥感や絶望感、あるいは、正義とは何なのか、社会に価値があるのか、真に守るべきものとは何なのか、などという身につまされるようなテーマが一切ない。いや、考えようとすれば考えられないこともないのだろうが、それらはとても希釈されており、ふわふわと目の前を通り過ぎていくばかりのように思える。
 その原因のひとつは、「貨幣」を「時間」に置き換えたせいで起こる、非現実感であろう。
 自分の持ち時間がなくなると、その時点で強制的にショック死する、という設定なのだが、それがうまく機能していないように見受けられる。たとえば、自分たちの持ち時間が残り僅か数分に迫ったとき、ウィルとシルビアが取った行動は、金持ち(この場合時間持ちか)の車を襲って時間を強盗する、というものである。で、奪ってやれやれひと安心となるのだが、そんなことでいいのか? いくら間違った社会システムを根底からぶち壊してやるという崇高な目的があるとはいえ、無辜の人間から物を奪ってはいけないんじゃないの? ていうか、結局最後まで社会システムぶち壊せてないし! 君たちがやったのは、シルビアの父ちゃんの会社を倒産させただけのことだし! 君たちただの犯罪者だし! という感じなのである。
 また、ウィルの親父が、過去ウィルと同じようなことをしでかして死んだらしいのだが、その詳細が一切語られない。それに、そもそもハミルトンが何故人生に絶望したのかということもいまいち分からないし、ふたりの取った行動で世界がどう変わったのかも描かれない。回収されない伏線が多いのである。
 そのせいで、とても中途半端な気持ちになる。あれ? なんか何も解決されてなくね? とエンドロールを呆然と見送る羽目になるのである。もしかして、エンドロールのあとにおまけ的にエピソードが流れるのかもしれないと思って待っていると、何も流れないのである。置いてけぼりである。投げっぱなしジャーマンである。

 ということで、久しぶりにボニーとクライドの映画を観たくなってしまった。
 ふたりの、衝動的で刹那的な、熱病にうなされて突き動かされているようなぎりぎりの感じ、そして徐々に追いつめられ、逃げ場を失い、逼迫していくあの絶望感、さらにラストの衝撃。
 けだし名作である。
 どうせ真似るなら(いやリスペクトか? それともオマージュか?)「タイム」も、その作品くらいの完成度まで持っていってもらいたかった。

 ていうかさ、もうここまで書いたからぶっちゃけるけどさ、ボニーとクライドに限らず、「イージーライダー」も「真夜中のカウボーイ」も、反社会的な行動に駆られた主人公たちは、みな死んでいくんだよ。なのになして君たちは生きてんだよ、意気揚々と銀行襲う姿をラストに持ってくんなよ。義賊ですらねーんだよ君たちは。いや待てよ、それまでの流れからして、いきなり最後でふたりが死んだら、それはそれで浮くか? 浮くかもしれないな。最後だけ悲劇にすればいいってもんじゃねーぞって、それはそれで怒っているような気もする。難しいところだ。

 ということで、以上、ひどいネタバレとひどい悪口である。

 しかし正直、面白そうと思っていただけに、ちょっと残念な作品であった。