べっちょない日々

作家の末席を汚しつつ、しぶとく居座る浅田靖丸のブログ

哲学は難しい


 哲学書を読むのが好きである。
 といっても、原書やその翻訳書などの一次資料が読めるはずもないので、読むのはもっぱら、「入門書」と書かれている類のものばかりである。
 だいたい、哲学書というのは、文章が独特で難しすぎるのである。
 ためしに、今手元にある、ハイデガーの「存在と時間」(桑木務 訳 岩波文庫)から引用してみよう。
「私たちは「存在」がどういう意味のものか、知りません。しかし「(存在){ザイン}とはなんであるか?」とたずねるときすでに、わたしたちは「である{イスト}」ということがなにを意味するかを、概念的に確定することをしないで、「である」が分かっています」
 先生すみません、「分かっています」と言われても、私は私がなにを「分かって」いるのか、それすら分かりません、と空しい反論を口にするのが精一杯であろう。
 あるいは、
「現存在は、ただたんに他の存在するものの間にだけ現れるような、存在者ではないのです。むしろ現存在は、自分の存在において、この存在そのものを問題とする存在するものです」
 先生、短い文章の中で「存在存在」言い過ぎだと思います、ということくらいにしかもはや突っ込めない。
 私に辛うじて理解できるのは、この本が、日本語に翻訳された文章である、ということぐらいである。

 哲学とは「言語」を用いて世界を記述しようとする試みである、と思う。しかし、その「言語」が、ああでもないこうでもないと色々こねくり回されているあいだに、一般的な使われ方とは違う形で用いられていくようになっている、ような気がする。
 いちいち弱気なのは、自分の書いていることが、的を射ているのかどうか分からないからである。
 とはいえ、ずっと弱気なセリフを書き足していくのも面倒なので、ここから以降は断定口調で書かせていただく。
 読者の方々には、おのおの文章末に「ようである」とか「らしい」「と思う」というようなセリフをくっつけて読んでいただきたい。

 ということで、哲学の話である。
「言語」が、、一般的な使われ方とは違う形で用いられていくようになっていく例として、ベルクソンを挙げてみる。
 ベルクソンとは、フランスの哲学者で、時間に関する考察で有名な人物である。日本ではあまり知られていないが、フランスでは、知らない人はいないというぐらいの偉人である。(らしい、と、ちゃんと付けるように)
 ベルクソンの本も難しすぎてさっぱり分からないのだが、私の必殺技「入門書」によると、ベルクソンは、私たちは普段「時間」という言葉を、間違って使っているのだという。
 たとえば、時計。
 時計は時間を表しているかといえば、そうではない。時計は、針が移動するという空間を表しているのであり、それによって時間を便宜的に計っているというだけのものであって、本当の時間、時間の本質というのは、別にある、とベルクソンはいう。
 ではその、本当の時間とは何か、となると、また私には何が何やらさっぱりなのであえてここでは説明しないが、しかし少しだけ、何か違和感を感じることがある。
「本当の」とか「本質」などという言葉の使い方である。
「本当の時間」と言われると、何やらそこに重大な真理があるような気がしてくる。
 そして、その重大な真理を自分は理解できずにいるのだ、という気持ちになり、何か損をしているような気分になってしまう。
「あなたの愛は本当の愛ではないわ!」などと言われると、別にこちらが悪いわけではないのに、妙にドキドキして、不安になって、思わず謝ってしまうのと同じである。
 それぐらい、この「本当」という言葉は曲者なのである。
 しかしちょっと考えてみると、私たちが「時間とは何か」と問うとき、明らかにして欲しいのは、私たちが日常的に使っている「時間」というものの正体についてであって、ベルクソンによって定義し直され、再構築された「時間」のことでは決してないはずである。
 こう言うと、「いや、『本当の時間』とは、その『日常の時間』から重要なものを抜き出し、純化させたものであって、何もまったく別の物をどこかから引っ張り出してきて、それを『本当の時間』と呼んでいるわけではないぞ」と反論されそうであるが、そもそもその「本質を抜き出す」という行為そのものに、最初から、偏狭なところへ入り込んでしまう道筋がつけられているような気がしないでもないのである。
 こういったことは、何もベルクソンに限ったことではない。
 哲学書(の入門書)を読むと、あちこちに「あなたの言うそれは偽物で、本物はこれでーす、残念でしたー」みたいな論法がけっこうある。そしてその「本物」として提示されるものに限って、私たちが日常的に指しているものとは少しずれたものだったりするのである。
 こういったことにいちいち引っかかるのは、私が読んでいる入門書が悪いのか、それとも私の頭が悪いのかのどちらかであろう。というより、おそらく後者なのであろう。
 しかし、ウ○コやオシッ○に本当も嘘もないように、「本当の時間」や「本当の愛」や「本当の私」などというものも、おそらくないように思うのである。やはり私は馬鹿なのだろうか。

 かつてウィトゲンシュタインという哲学者は、おおよその哲学的命題を「言語ゲーム」であると切って捨て、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という名言を残しているが――これはこれでめっちゃかっこいい言葉ではあるが――だからといって、哲学という学問が、終わってしまったわけではない。ような気がする。(忘れた頃かもと思ってつけてみた)

 それに、多くの哲学的命題が「言語ゲーム」であるにせよ、「では、人間は何故そのような命題を立てずにはいられないのか」という問いかけが新たに生まれてくる。哲学の道は、入門書しか読まない私にとってさえ、果てしなく長く、険しいものなのである。

 うむ、何が言いたいのか分からなくなってきた。
 とまれ、哲学のように、自分にはさっぱり理解できないものがある、ということを知るのは、無駄なことではない。いや幸せなことですらある、ということが私は言いたいのか?
 うむ、それが言いたかったのかもしれん。
 そうか?
 私は何が言いたいのだろう?
 そもそも、私に何か言いたいことなどあるのだろうか?
 本当に言いたいことなんてあるのだろうか?(しまった「本当」を使ってしまった)

 ええと、自分にはさっぱり理解できないものがあるということを知ると、謙虚にはなれるかもしれないよね。
 しかしそれ以上に、理屈っぽくなるぞ。
 で、女性に嫌われる。
 幸せじゃねーじゃねーか。