「砂漠でサーモン・フィッシング」鑑賞
「砂漠でサーモン・フィッシング」
監督 ラッセ・ハルストレム
出演 ユアン・マクレガー エミリー・ブラント クリスティン・スコット・トーマス など
あらすじ
水産学者のアルフレッド・ジョーンズ博士(ユアン・マクレガー)は、ある日、投資コンサルタントのハリエット・チェトウォド=タルボット(エミリー・ブラント)から、資産家のアラブ人、シャイフ(アムール・ワケド)が、イエメンでサーモン・フィッシングがしたいと依頼してきたのだが、手伝って欲しいと相談を持ちかけられる。
あまりにも荒唐無稽な話に、呆れて断りを入れたアルフレッドだったが、その一件が、イギリスと中東との関係改善のためのネタを探していた首相広報担当官のマクスウェル(クリスティン・スコット・トーマス)の耳に入り、話は一転、イギリス政府肝いりの計画へ発展する。
一旦断っていたアルフレッドもその計画に否応なく巻き込まれ、彼はハリエットとともに、シャイフに会うことになる。
当初は単なる金持ちの道楽かに見えた計画だったが、砂漠に水を引き、農業を発展させ、豊かな土壌の基盤を作りたいというシャイフの理想を聞き、アルフレッドも徐々に計画に前向きになる。
しかしそのプロジェクトの途中、ハリエットの恋人で軍人のロバートが、戦地で行方不明となったとの報せが入る。
すっかり意気消沈し、プロジェクトを抜けたいと言い出すハリエットを励まし、イエメンへ連れて行くアルフレッド。
だがそこへまた、世論の大反対に遭ったため、プロジェクトを凍結するとのイギリス政府からのお達しがくる。
果たして彼らは、数々の困難を乗り越え、イエメンでサーモン・フィッシングをするという夢を叶えられるのだろうか。
感想
タイトルを見ただけで、なんか面白そう、と思った映画である。
しかし例によって、こういう地味な映画は上映館が少ない。
調べてみると、関西圏ではたったの十五館だけである。
どの劇場に行こうかと頭を悩ませていると、大阪の堺で上映しているとの情報が目に入った。
堺と言えば「アルフォンス・ミュシャ館」である。その名の通り、アールヌーボーの画家、ミュシャの作品が展示されている美術館で、何を隠そう、ミュシャの大ファンである私は、年に数回足を運んでいるのである。そして、最近ちょうど「来年度のミュシャのカレンダーが欲しいな」と思っていたところだったのである。これはもう、行かねばならない、と思うのである。神のお告げである。都合のいいときだけ神様を持ち出すのである。
さっそく私は堺まで車を飛ばし、ミュシャ館にて展示を見てカレンダーを買い、そののちに映画館へと向かった。時間も読み通り。ほとんどロスもなく、とんとん拍子にことが進んでいく。
そんな上機嫌の中で観た「砂漠でサーモン・フィッシング」は、予想通り、とてもいい作品だった。
まず、俳優陣が素晴らしい。
みな、個性的ながら役柄にぴたりとはまっている。
主役のユアン・マクレガー、最近見かけないなと思っていたら、いつの間にか渋いおっさんになっていた。関根勤にちょっと似ている、と思うのは私だけだろうか。
それから、ハリエット役のエミリー・ブラントも、とてもいい。知的で、それでいてチャーミングである。
それになんといっても、マクスウェル役のクリスティン・スコット・トーマスである。家庭では四人の子どもを育てる肝っ玉母ちゃんでありながら、首相付きの広報官としてばりばり働くキャリアウーマンというエネルギー溢れる女性の役を、とても楽しそうに演じている。エリート特有の傲慢さやずる賢さを、苛立たせない程度に、しかしきっちりと見せつける手腕も見事である。
しかし欲を言えば、もう少しプロジェクトの描写に時間を割いて欲しかった。
登場人物の生活の問題や人間関係や、その中で揺れ動く気持ちを描く方がメインになってしまっていて、肝心のプロジェクトの方が、わりとすんなりと進展していくのである。
政府までが絡んだ一大プロジェクトであるならば、大規模な調査団や建設スタッフを組んで乗り込むシーンがいるべきだろうし、物語の終盤にかけて、もっと困難に次ぐ困難が怒濤のごとく発生してもいいと思う。
しかし一方で、それをしてしまうと、人間ドラマの方が物足りなくなるだろうかとも思う。難しいところである。
というか、人間ドラマの方が良くできているからこそ、もう少しなんとかと、欲が出てしまうのかも知れない。あるいは、ミュシャを鑑賞したあとの、まったりした気分で観てしまったため、映画の盛り上がりを感知できなかったのかも知れない。
ううむ。そうなると、どちらにせよ私のせいということになるのか?
私の心の状態が、作品の評価にかなりの影響を及ぼしているということなのだろうか?
それは果たして公平と言えるのか?
いや、私の状態が評価に影響するというのは、ある意味当然ではなかろうか。
酒を飲むというだけでさえ、そのときの体調や気持ちで味や酔い方が変わるのだから、映画を観るときも同じであろうというのは、不思議でもなんでもない。
だがそうなると、映画(に限らずあらゆる表現物を)批評するという行為は、個人の感想を押しつけようとするだけの、とても傲慢なものではないのか、などと、今さら手垢の付いた問題提起がまたぞろ立ち上がってくるという暇な真夜中である。今日、親知らずを抜いたせいで酒が飲めないため、夜が異様に長いのである。などという言い訳からしてすでに、個人的な事情による押しつけが始まっている。
そもそも、なにかを表現するということはすべからく押しつけなのであり、翻れば人生は誰かになにかを押しつけているということなのである。なので私が誰になにを押しつけようと、それは自然な行為なのである。なのであると言ったらなのである。
ということで、自己欺瞞もあらかた終了したので、映画の話に戻る。
私の体調や気分がどうであろうと、やはりこの作品は、少しおとなしいという印象は拭えない。
その分、感情の描写は丁寧なものになっているのだが、その描写も、どこか小説的というか、丁寧に作り込まれすぎている、と思ったら、原作が小説だった。イギリスでは大ベストセラーの作品らしい。
ポール・トーディという作家の作品だそうだ。
小説の方も、またどこかで見かけたら手に取ってみたい。
そう思わせるには充分な映画であった。