べっちょない日々

作家の末席を汚しつつ、しぶとく居座る浅田靖丸のブログ

徳島うどんツアー


 八月十六日。
 私は一路、徳島へ向かって車を走らせていた。
 山陽自動車道から明石海峡大橋を渡り、淡路島を縦断して鳴門大橋から徳島自動車道へ。
 真夏の空はどこまでも青く、ときどき現れる海が、太陽の光をぎらぎらと反射させて輝いている。
 窓を開けると、うっとおしいほど熱く湿気を孕んだ風が頬を叩き、盆も終わりかけている時期とはいえ、まだ夏の真っ盛りであることを否応なく実感させる。
「短く切りすぎた私の髪に/あなたがくちづけたのは/夏のある午後/とても晴れてた/まるで今日のように」車のスピーカーから流れてくるpizzicato fiveの歌に身を委ねつつ、どこまでも続くかに思われるほど真っ直ぐな道をひた走り、ようやく私は目的地に到着した。
 徳島県吉野川のほとりに建つ一軒の民家。
 友人であるK氏の奥様の実家である。
 盆休みの期間、K氏が家族で帰省しており、彼らが帰る日に合わせて、そこへ私が迎えに行ったのだ。
 何故そのようなことになったかと言えば、彼らを迎えに行くついでに、徳島のうどんを堪能しようという計画が立てられたためだった。
 徳島と言えば、近頃はラーメンが評判になっているようだが、もともとは香川県に次いでうどん文化の花開く地であるという。
「それは行かねばなるまい」数ヶ月前、その話を聞いた私が思わずそう提案すると、K氏はこう答えた。
「では我々の帰省に合わせて迎えにきてくれれば、帰りの料金が浮くではないか」
「私の高速代やガソリン代は浮かないのだが」
「それはそれである」
「それはそれなのか」
「迎えにくるか?」
「うむ。行こう」
 という綿密な打ち合わせが行われ、今回の旅が決定したのだった。

 徳島もご多分に漏れず暑かったが、本州の暑さとは違って、かなり湿気が少ないようだった。ときおり通り過ぎる風が、頬に気持ちよい。
 K氏の家族を拾った私は、その足で「おはなうどん」なる店へ向かった。
 この店は、K夫人が子どものころから通いつめた思い出の店だという。
 開店と同時に入店し、さっそくうどんを注文する。
 私が頼んだのは「しょうゆうどん」。
 麺は太くてコシがあり、これぞうどん、という王道のうどんである。
 そして量が多い。
 二人前かと思うほどである。
 天ざるうどんを注文していたK氏の娘さんなどは、その天ぷらのあまりの量に、目を丸くしていた。
 さらに何故か、デザートにメロンがついていた。
 うどんにメロン……。
 よく分からないが、サービス精神が旺盛なのであろう。
 食べたらおいしかった。
 一軒目からがっつりとうどんを堪能した我々は、次の目的地に向かって車を走らせた……といえば形になるのだが、実際の我々は、特に次の目的地を考えていなかった。
 とりあえず本州に向かって走りながら、そのときどきで寄りたいところを見つけよう、という、かなりいい加減な、いやとても柔軟性に富んだ計画だったのだ。
 その計画に則って、あてもなくぼうっと車を走らせていたところ、K氏が、いいことを閃いたとばかりに「谷川米穀店へ行くか」と提案してきた。
 谷川米穀店といえば、第二回うどんツアーで訪れた店である。つまり、香川県の店だ。
 しかしK氏によれば、その店は香川県徳島県の県境にあり、車なら二十分もあれば着くという。
 それならば行こうと、早速そちらへハンドルを切る。
 ひと山越えて香川県へ入ると、谷川米穀店は、確かにすぐにあった。
 だが閉まっていた。
 盆休みである。
 我々の柔軟性に富んだ計画の最大の欠点が早々に露わになった形である。
 項垂れながら我々はもと来た道を戻った。
 すると、早くも頭が煮えたのだろうか、車中でK氏が、「ではうだつでそばを食べるか」と言い出した。
 そばはうどんではない。
 そう反論しようかとも思ったが、私の頭もすでに煮えていたため、素直に従う。
 うだつとは卯建と書き、「うだつが上がらない」という慣用句のもとになった町であるらしい。
 そのうだつの町にはすぐに到着、車を置き、そば屋に向かう。
 入ってみると、そこは出石そばの店だった。
 何故徳島まできて出石そばを食べねばならぬのか、釈然としない思いがこみ上げてきたが、頭が煮えているため深くは考えずに食す。
 うまい。
 出石そば。
 そばを食べ終わったあと、せっかくだからうだつの町並みを見て行こうということになった。
 うだつというのは、家屋の屋根部分に付けられる防火壁のことで、かなり高価なものらしい。「うだつが上がらない」という言葉は、家を建ててもそのうだつを取り付けられないという、つまり、いつまで経っても出世せず金銭にも恵まれない、甲斐性なしのことを指すのである。
 ほっといてくれ。
 どうせ俺は、いつまで経ってもうだつの上がらない、甲斐性なしの、何の価値もない男ですよ、生きててごめんなさい、地べたで寝ます。
  とまれ、そのうだつの付けられた家々が当時のまま保存されているうだつの町は、「重要伝統的建造物群保存地区」なるものに指定されており、観光地になっているのだ。

うだるほど暑いうだつの町並み

 うだつはまた、藍商(藍染めの反物を売る商人)の町でもあるらしい。
 藍染めの商品を扱う店が、ちらほらある。
 それらの店に立ち寄ったりしつつ、ふらふらとうだつの町を散策する。
 暑い。
 この暑さの中、何故うだつの町を歩いているのか。うだつの町に興味があるわけではなかった。というか、そもそもそんな町があることを今知った。藍染めとか、うだつとかに強く惹きつけられるわけでもない。なのに何故私は汗をだらだら流しながら、さして興味もない町を歩いているのか。
 釈然としない思いがまたこみ上げてきたが、頭が煮えているため、結局深くは考えられない。
 うだつの町を見物し終えた我々は、K氏に導かれるまま、次の場所へ向かう。
 その途次、潜水橋という橋を渡ろうと言う。
 行ってみると、これが今回の旅の最大恐怖の場所だった。
 吉野川の、広い川幅の場所に橋が架けられているのだが、その橋の路面が、水面ぎりぎりの高さに作られており、両側には、ガードレールも手すりも何もないのである。
 しかも、橋の幅は車が一台通れるだけしかなく、さらに一方通行ではないため、川の向こうとこっちで、示し合わせてどちらかを先に通すことでしか進めないのだ。
 どうやら、川が氾濫しても流されない橋を作ろうとしてこういう形になったらしいが、これを思いついた人間はおそらく極度の不感症であろう。もしくは極度のサディストであろうか。

恐怖の潜水橋 車中からの撮影のため、その恐ろしさが伝わらないのが残念である

 私は恐慌状態に陥った。
 橋を渡る途中に、わずかでもハンドルを操作し損ねれば、車は容易く川へ転落するだろう。
 そうでなくとも、両脇は吉野川である。その川底から、未知の恐竜や巨大な川蛇が出てこないとも限らない。
 そんなものに襲われれば、車なんぞ簡単に潰され、我々は抵抗もできず喰われてしまうに違いない。
 想像したら、ものすごく怖い。
 ハンドルを握る手に力が入り、暑さのためではない汗が額から噴き出す。
 が、私以外のK氏の家族たちは、わずかな恐怖すら感じていないようだった。
 ひとり怯える私を、物珍しそうに眺めてくる。
 それどころか、何がそんなに怖いのだ? と臆面もなく訊ねてさえくる。
「いや、だから、横から突然恐竜が現れたら……」言わせるな。口にするとより一層恐怖が増すではないか。
 命からがら――そう、それはまさしく命からがらの体験だった――潜水橋を渡り終えた我々は、次に穴吹川なる川の、河川敷へと向かった。穴吹川吉野川の合流地点は、有名な川遊びのスポットだという。

穴吹川の川べりで遊ぶひとたち

 散々迷った末に辿り着いた穴吹川の河川敷は、すでにひとでごった返していた。
 家族連れが多い。みな水着姿で、なかなか本格的に川で遊んでいる。
 水着なんぞ持ってこなかった我々は、ズボンの裾を膝までたくし上げ、ちょこっと水際に足を浸すくらいのことしかできない。
 しかし、それでも思ったより涼が取れる。
 潜水橋の恐怖がいくらかやわらいだだけでも休んだ甲斐はあった、と思っていたら、左足が攣った。潜水橋の呪いであろうか。
 攣った足が治るのを待ち、車に乗り込む。
 その途端、にわか雨に見舞われる。
 川で遊んでいる人たちが気の毒になるが、よくよく考えると、どうせ濡れているのだから関係ないかも知れない。いっそ気持ちいいかも知れない。ちょっとうらやましい。
 そうこう言いながら、三軒目の店に到着。
「まごころ」といううどん屋である。
 K氏のふたりの娘さんたちは、どちらもリタイア。
 近頃の若者は、胃が小さくなっているのか?
 若者のうどん離れが深刻化しているのか?
 いや、ただ単に我々の食い意地が張っているだけだろう。
 そうして大人三人だけで入った「まごころ」で、釜揚げうどんと湯だめうどん、そして天むすを注文する。
 ひとりひと鉢頼めばいいのではとK氏に聞くと、ここのうどんの量を舐めるなよとの返答。
 その返答の通りの大ボリュームのうどんが出てきて、かなりビビる。
 めまいがしそうなほどの、すごい量である。
「おはなうどん」もそうだが、徳島のひとは、サービス精神が過剰に旺盛なのかも知れない。
 ひとりひと鉢頼んでいたら、とても食べきれない量だった。
 そして、天むすがやたらうまかった。
 うどんに天むす、炭水化物祭りである。
 痩せないはずである。
 腹一杯になった我々は、「どこかでお土産が買いたい」という娘さんの言葉により、どこかお土産が買えそうなところを目指して移動した。
 とその道中、眉山と書かれた看板を見かけたK氏が、「眉山に行きたい」と唐突に主張したため、進路を変えて眉山に向かう。
 つづら折りに曲がりくねる細い峠道を、延々、延々、延々、上りつめると、その頂上にロープウェイのある公園がある。
 ロープウェイ乗り場まで車で行けるはず、というK氏の言葉を信じて上りつめると、行き止まりにぶつかり、にっちもさっちもいかなくなる。そこからほうほうのていで退がり、分岐を見つけ、今度こそロープウェイ乗り場だと向かう。確かにそこは頂上で、少し先にロープウェイ乗り場もあるにはあったが、どう見ても車の乗り入れが禁止の場所だった。
 申し訳ないと、肩身の狭い思いをしながら、恐る恐る下車する。
 眉山は、さだまさしが小説の舞台として取り上げたことで有名になった、徳島県のシンボル的な山である。
 どこから眺めても眉の形をしているため、眉山と呼ばれているらしい。
 その眉山の山頂は、少し、いやかなり変わった空間だった。
 まず目についたのは、「モラエス館」という看板の掲げられた建物である。
 意味が分からない。
 モラエスって何だ? と案内板を読むと、それはポルトガルの外交官だったヴェンセスラウ・デ・モラエス氏のことで、徳島に住み、多くの著作を残した名士のひとりであるという。
 なるほど、偉人の記念館であることは分かったが、しかし、どうしてそれを、わざわざ眉山の山頂に建てたのか。
 それが分からない。
 そのモラエス館に背を向けると、もうひとつびっくりする建造物がある。
「パゴダ平和記念塔」と名付けられているその建物は、一階部分が六角形(か八角形)になっており、その上に、にゅるんとした形の、白塗りでインド風の塔が立てられているのだった。
 モラエスやらパゴダやら、意味が分からん、と独りごちながら説明を読むと、パゴダ平和記念塔という建物は、第二次世界大戦の戦死者を慰霊するために建てられた記念塔で、中にはミャンマーから贈られた仏舎利が納められているという。
 パゴダとはストゥーパとも言い、つまり、釈迦の納骨堂という意味だった。
 慌てて手を合わせながら、しかし何故ミャンマー? 何故眉山の頂上? と私は再び首をひねった。
 徳島、どうやらひと筋縄ではいかない、奥の深い場所のようである。

パゴダ平和記念塔のストゥーパ 場違い感が半端ない


眉山頂上から眺める徳島市

 眉山を下りた我々は、そこでようやく帰路につくことにした。
 本当は噂の徳島ラーメンも食したかったのだが、「おはなうどん」「まごころ」のふたつの店からの、「並でも大盛り」という怒濤の攻撃を受け、さすがに満身創痍になっていたため、今回は遠慮することにした。
 そして娘さんたちのお土産は高速道路のサービスエリアでお茶を濁しつつ、帰宅したのであった。

 徳島、四国の中でも少し文化の色や香りが独特な、不思議な場所であった。
 今度は剣山にも行ってみたい。
 剣山は、「契約の箱」が埋められているという、天然のピラミッドなのだ。
 ね。
 徳島、不思議な場所でしょ。