親友の話
私には、唯一にして無二の、かけがえのない親友がふたりいる。
って、のっけから矛盾しているではないか。
ふたりなら「唯一」でも「無二」でもないだろ。
そういえば、「かけがえのない」という言葉の「かけがえ」は、以前からなんとなく「懸け甲斐」だと思っていた。
「命懸け」とかの「懸け」と「甲斐性」の「甲斐」で、命を懸ける甲斐のある相手だというような意味であろうかと。
しかしそれだと「かけがい」という読み方になるし、「かけがえのない」ではなく「かけがえのある」という言い方でないとおかしい。
そこで調べてみた。
すると、「かけがえ」とは「かけかえ」とも言い、「いざというときに代わりになる、予備として置いておく物」というような意味で、「かけがえのない」とはつまり、「代わりのきかないもの」「予備のないほど大事なもの」ということを指すらしい。
ふうん。なるほど。
そういえば、「気の置けない友人」という言い方をするときの、「気の置けない」という言葉も、昔勘違いをしていた。
気を置けない、つまり一瞬でも油断できない、気を許していけない相手、という風に解釈していたのだが、これはまったく逆であって、本来は「気を置く必要がない」という意味なのだった。
しかしそれなら、「気が置けない」ではなく「気を置かない」ではなかろうか。
「置けない」という語感から、なにか禁止されているような、拒むような印象を受けるのである。
なんたら詞のなんたら変なんたら活用とかを使って、「気を置かない」に変更すればいいのにと思うのだが、その、なんたら詞のなんたら変なんたら活用によってそう決まっているのだからしょうがないのだろうか。
よく分からない。
そういえば、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」という、夏目漱石の草枕にある有名な一節の中の「情に棹させば流される」という言葉も、間違った解釈をしていた。
「棹をさす」を、「差し止める」とかの「差す」と考えたため、「情にほだされるのを思いとどまると違った方向に流されるぞ」と言っているのだと思っていたのだが、これもまったく逆だった。
「棹をさす」とは棹を川底に刺して船を動かすことから「勢いをつける」という意味であり、「勢いのまま情に流されると困ったことになるぞ」という意味だったのだ。
ううむ。
奥が深い。
私が浅いだけか。
浅田だけに。
面白くないのは分かっているのである。
そういえば、親友の話をしようと思っていたのだった。
でも面倒臭いからもういいや。
それは本当に親友なのか?
私にもよく分からない。
というより、タイトルを「そういえばの話」に変えた方がいいのではなかろうか。