苦手なひらがな
私は浅田という名字なので、なにかの伝票や書類などのフリガナの項目で、「あ」という文字を比較的書く機会がある。
この「あ」というひらがながうまく書けないのが常々気になっている。
そうでなくても、「あ」という文字は「ありがとうございます」や「ごあいさつまで」や「あなたはあほなのか」など、手紙を書くときにもよく使う。(最後のはきっと一生使わない)
なので、「あ」が下手なのはちょっと困る。
ここ数年、原稿を書くのはずっとパソコンでのキーボード入力なのだが、先日ふと思い立って、ノートに手書きで書いてみることにした。話は逸れるが、「手書きで書いてみる」って、ちょっとおかしな表現か? 「馬から落ちて落馬する」みたいな、いわゆる重言というやつなのだろうか。しかしこの場合、「手書き」で「原稿を書く」という意味であり、その「原稿を」を省略していることから一見重言のようになっているだけのような気もする。どうなんだろう。
閑話休題。この文章すべてが閑話みたいなものだが。
手書きで原稿を書いていて、(やっぱり重言か?)気付いたことがある。
私には、「あ」以外にも、苦手なひらがながあったのだ。
それは「え」と「お」である。
いつから「え」と「お」が苦手なのか、何故苦手なのか、さっぱり分からない。「え」と「お」が苦手なら、もうちょっと難しい「な」や「ね」はどうだろうと試しに書いてみると、それらは全然書ける。なんなのか。
自分なりに考察してみた。
まず「え」である。
何度も書いてみて分かったのだが、私にとって「え」というひらがなは、少しばかりしつこいのだ。
まず点を打ち、一旦筆先を離してその下に横画を引く。そこから斜め下に線を下ろし、さらに斜め上に切り返したかと思うとすいかさず真下へ下げてまた横画、という工程が、まだるっこし過ぎるのである。私の感覚としては、点を打ち、横画から斜め下へずらし、そこから切り返す、という辺りで終わって欲しい。というより、その辺りで気持ち的には書き終わっているのである。気持ち的には終わっているのに、現実的には終わっていないので、あれ、まだ書かないといけないのか、と面倒臭くなるのだ。それがおそらく、私が「え」を苦手とする理由である。甚だ自分勝手な理由で、我ながらびっくりである。
ただ、「え」はまだ使う頻度がそれほど高くはない。セーフである。(なにがだ?)
問題は「お」である。「お」はかなり使う頻度が高い。なにせ、敬語や丁寧語のときには必ずといっていいほど最初に「お」を付けるのだ。
たとえば「お久しぶりです」や「おかげさまで」や「お前おれの本がおもろない言うたらしいの、おお!」などは、手紙を書くときによく使う。(だから最後のは使わないって。いや使わせないで欲しい。いや使う羽目にならないように自分ががんばれよって話だが。そんなことは分かっているのだよ。分かっていてもどうしようもないことがあるだろ? 人生そんなことばかりだろ?)
何故私は「お」が苦手なのか、これもまた、何度も書いてみて分かった。
横画のあとの縦画、この縦画から左に持ち上げながらゆるく楕円を書くときの、縦画から円への切り返しのところ、そこをどうするかが、自分の中できちんと定まっていないのである。以前の私は、その部分できっちりと止まって、尖らせて書いていた。縦画の下で一旦止まり、左へ跳ね上げるように筆先を運び、またそこで一旦止めて、先端を尖らせるようにして右へ切り返していたのだ。ところがいつだったかなにかで、そこを尖らせないほうが上品である、というようなことを見聞きしたような気がするのである。それに影響されて、丸く書こうとし始めたような気がするようなしないような感じなのである。ところが、すでに私の指には、「お」を尖らせるように書くことがリズムとして染みついている。それを無理やり、どこも尖らせずに丸く書こうとするものだから、リズムが崩れるのである。リズムが崩れたまま、どっちつかずの変な楕円を書き、持ち直すこともできずに点を打ってしまうことになるのである。これが私の「お」を苦手とする理由だった。自分で考察しておきながら、律儀なのか馬鹿なのかよく分からない。きっと不器用なだけなのだと思うのだが。
とにかく、「あ」と「え」と「お」を練習しなければならない。苦手意識を克服し、かっこいい字が書けるようにならなければならない。
しかしそんなことを言い出すと、全部の字がイマイチなんだよな。要するに、字が下手なのだ私は。どうにかしてうまくなれないものだろうか。ううむ。
ところで、前々から思っていたのだが、「あ」というひらがなは、仮面ライダーストロンガーに似ているよね。「ぬ」は仮面ライダーアマゾンに似ている。なんとなく。
新年のご挨拶
大変遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
ここ数年、ブログの更新をサボり続けてしまったので、今年こそはなんとか、ちょっとずつでも記事を挙げていこうと決心した矢先、残念なことに年明け早々大層な風邪を引いてしまい、ずるずると今までほったらかしになってしまっていた。
残念と言えば、私がまだ四歳か五歳の頃のこと、誤ってすべり台の上から転落し、頭を強く打ったことがある。
「ああ、なるほどそれでそんな残念な感じに……」と思ったかた、黙っていても先生には分かっているんですよ。素直に手を挙げなさい。今なら怒りませんから。(このネタ、以前にも一度やったような気がする。まあいいや、持ちネタにしてやる)
というより、私のどこが残念なのだ。残念だと思うひとは、400字以上2000字以下のレポートにまとめてメールで送ってきてください。いや、やっぱり止めてください。本当に送ってこられたら、きっとおじさん泣いちゃう。
強い衝撃のあと、斜めにずれた公園の風景と、どんよりと曇った空が見えた。右の頬が、生温かいもので濡れているのが分かった。なにか不吉な思いに駆られて、起き上がって逃げ出したくなったが、体がまったく動かない。なにがあったのか、まったく分からない。一緒に遊んでいたはずの友達の、泣きわめく声が聞こえる。そこで初めて、自分が地面に倒れていることに気が付いた。そのことに気が付いた途端、全身に凄まじい痛みが走った。体が粉々に砕けてしまうのではないかと思うほどの、強烈な痛みだ。耐えきれず身をよじろうとするが、相変わらず体は動かない。痛い痛い痛い痛い。声に出ない悲鳴を上げながら、唯一動く目で、必死に辺りを見回した。公園には友達以外に誰もいない。錆びたブランコ、ペンキのはげたジャングルジム、四角くく区切られた砂場。視界の右端に見える赤いものは、血だ。血はどんどんと広がり、辺りを赤く染めていく。友達の泣き声を聞きつけたのか、近所のおばさんが血相を変えて駆け寄って来るのが見えた。とその瞬間、視界が真っ暗になり、意識が途切れた。
というように、そのときのことを克明に覚えていればよかったのだが、あいにくまったく覚えていない。落ちた記憶すらない。
ただ、母親からそんな事故があったと聞かされたことと、そのときに作った、顎の下と右の眉尻の傷跡が、事実であることの証明である。
特に顎の下の傷はひどかったようで、何針か縫われた跡が、四十年経った今でもうっすらと残っている。
その傷跡のせいで、髭を剃る際、顎の下あたりがうまく剃れずにいつもまばらに髭が残ってしまうのである。
それが残念なことなのである。
なんだそのくだらないオチは。というか、新年最初の記事のテーマが「残念なこと」って、どういう神経してんだ。それがなにより残念だわ。と思ったひと、手を挙げなさい。先生も同じことを思ったので怒りませんよ。
お願い
新刊の発売から二週間が経ちました。
その間、元関西テレビのアナウンサー、現在ラジオパーソナリティーとしてご活躍の桑原征平氏が、自身のラジオ番組「粋も甘いも」内にて、二度に亘って拙著を紹介してくださったり、西脇市の広報課が取材をしてくださったり(来月の広報にしわきに記事が載ります。よろしければお目通しくださいませ)、高校時代の旧友から久しぶりに連絡があり販促に勤しんでくれてたりと、さまざまなことがありました。
この記事をお読みのかたがたも、きっと、おそらく、拙作をお買い上げくださったかたばかりなのだろうと思います。ね? そうですよね? 買ってくれてますよね?
本当にありがたいです。感謝です。
ところが、です。
しかしながら、です。
編集部に問い合わせてみたところ、売れ行きのほうがあまり芳しくないようなのです。
五年ぶりの出版という夢のような喜びのあとには、つらい現実が待っているのであります。
きつい、厳しい、困った、の3Kなのであります。
苦しい、険しい、過酷、の3Kでもあります。
きっと、キミに、恋してる、の3Kだとどこかのアイドルの歌みたいであります。
カニとか、カキを、喰いたい、の3Kは今の私の気持ちであります。
肛門周りが、かなり、かゆい、の3Kは病院に行くべきであります。
悲しい、気持ちの、こんにゃく、の3Kは、早くもネタ切れかよ、最後まで考えろよ、と怒られるのであります。
話が逸れました。
売り上げが芳しくないというのは、作家にとって切実な問題です。
けっこう、窮地な、小林君、の3K……ってもういいよ、小林君て誰だよ。
さらに、重大な問題がもうひとつあるのです。
本を買ったよ、と言ってくださるかたはいらっしゃるのですが、本の感想を言ってくださるかたがいないのです。
これはけっこう悲しい、あ、ここにも3Kがあった。
ひょっとして面白くなかったのだろうか、正直に感想を言うと落ち込ませるだろうから言わないと思われているのだろうか、そもそも、間違って買ってしまっただけで読んでいないとか、そういうことなんだろうか。
いろいろなことが頭を巡って、落ち着かない気持ちになります。
なので、拙作をお読みくださったかた、是非とも感想をください。
面白かった、とか、涙が止まらなかった、とか、今世紀最大の傑作だ、とか(そこまで大袈裟だとかえってイヤミですが)、ひと言で構いません。
もちろん、ご批判のお言葉でも結構です。
私へのメールでも、通販サイトのレビューやご自身のSNS、某匿名掲示板など、どんな媒体に上げていただいても大丈夫です。
作家は、どんな小さな感想でも、いただければそれだけでやる気が出る生き物なのです。
みっともない、わがままなお願いであることは承知しておりますが、なにとぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m
新刊発売決定!
みなさま、お待たせしました。
首を長くして待っていたとおっしゃっていただけるかたはもちろん、そんなに待ってなかったというかたや、そもそもあんた誰? と思われるかたまで、すべてのかたに、感謝を込めて再度申し上げます。
みなさま、お待たせしました。
ついに、ようやく、どうにかこうにか、新刊を上梓することができました。
ありがとうございます。
ブログの最後の記事が2014年ということですので、約4年ぶりの更新となります。
この4年間、ブログが面倒になって放置していたわけでは決してございません。
本業である小説のほうが一向に書き上げられないのに、ブログだけ更新し続けてどうするのだ、それは「逃げ」ではないのか、という思いがあり、勝手ながら、小説が出版されるまではブログを書かないようにしようと心に決めていたのです。
願かけの意味合いもありました。
ブログを書くのは楽しい作業です。それを、本ができるまで書かないと決めて我慢すれば、小説のほうにも自ずと力が入るのではないだろうか、そういう目論見があったのです。
しかし、そんな状態がまさか、4年も続くとは。
すべては私の力不足故のことではありますが、まったくの見込み違いでした。
4年も経つと、願かけもとうの昔に消費期限切れになり、発酵して変な匂いを醸し出すものです。この4年間、書き続けた物語がことごとくボツになり、私の精神も、腐って濁ってドロドロになっておりました。あ、これ食べたらアカンやつやな、とすぐに分かる感じのやつです。
それだけに、今回こうして本が上梓できたことには、感慨もひとしおです。
嬉しすぎて、ちょっと変なテンションになってしまっているほどです。
この記事が、いつもの「である調」から「ですます調」になっているのもその影響とお考えください。あと、なにかセンチメンタルな文章になっているのもその影響とお考えください。何故か体重が増え続けているのも、髪が薄くなってきているような気がするのも、視力が落ちてきたのも足が臭いのもその影響とお考えください。
あ、ここまで新刊のタイトルを書き忘れてました。
「乱十郎、疾走る」
「疾走る」と書いて「はしる」と読みます。
2月8日(木)発売です。
カバーイラストは、槇えびし氏です。すんごいかっこいい絵です。このカバー絵を見るだけでも価値はあろうかと思います。しかし、本当にカバー絵を見るだけで買わないのはダメだぞ。おじさん泣いちゃうぞ。
うむ、やっぱりテンションがおかしいですか。テンションがおかしいのはいつものことだぞと思ったひとは手を上げなさい。正直に挙手すれば先生も怒りませんから。(と言いつつ大抵怒るんだよな先生は)
私の本の表紙を、槇えびし氏のような大人気作家に依頼して実現させてしまう編集部の力業には、正直頭が下がります。なにか弱味を握って無理やり描かせたんじゃないだろうかと邪推してしまいそうになります。とまれ、感謝です。恐悦至極です。
今回は文庫本での出版となりますので、お財布にも優しいです。ですので、心の広いみなさまにおかれましては、おひとりさま2冊以上のお買い上げをノルマとさせていただいて、売り上げに貢献していただくということでいかがでしょうか? 我ながら素晴らしい提案ですね。これぞwin-winというやつですね。(たぶん違う)
ということで、新刊の案内とはおよそかけ離れた駄文を書き連ねてしまいましたが、それはいつものこととご承諾いただき、また、拙作の内容は本をお読みくださった上でご確認いただくこととご理解をいただき、新刊の紹介とさせていただきたく存じますというようなつもりがあったりなかったりするかも知れない今日このごろであったりなかったりするかも知れない今日このごろであったり(以下ループ)
やはり変なテンションですか、そうですか。
とまれ、拙い作品ではございますが、是非お手にとってくださいますよう、なにとぞよろしくお願い申し上げますm(_ _)m
- 作者: 浅田靖丸
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2018/02/08
- メディア: 文庫
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トイレの蓋で一句
私は、トイレは大小の別に拘わらず座ってする派である。
大は座ってするくせに小は立つということこそ、男尊女卑にも通ずる男という性への特権階級的差別意識が潜在意識下にあるからである、などという理屈はまったくなく、ただ単に癖である。
で、最近ぼーっとしながらトイレに行くことが多く、ぼーっとしながらトイレの蓋を開け、ぼーっとしながら便座に座るのだが、ぼーっとしているせいで、トイレの蓋が開け切れていないことがままあるのである。
するとどうなるかというと、開け切れていない蓋が途中で止まり、それに気が付かないまま座ろうとした私の尻に、蓋が刺さるのである。
そして私は、
蓋の上に半ば乗っかかった状態で、
……あれ?
ええと。
どうなってんだ?
と数瞬戸惑うのである。
そんなことが、ここ三日連続で起きているのである。
どう? こんな四十路男の日常。
秋深し 尻に当たる 便座の蓋の冷たさ
と自由句を詠みたくなるのもわかってもらえるだろうか。